大阪市北区にある漢方医学や東洋医学の知識を用いて不妊治療・胃腸・肩こり・腰痛の悩みを得意とする鍼灸院です。東洋医学の見地だけでなく西洋医学の知識からでもアプローチをしています。

院長・院内紹介

伝統鍼灸一滴庵 院長 加堂 佑

加堂 佑(かどう たすく)

はり師 きゅう師 あん摩マッサージ指圧師

神戸東洋医療学院中医学研究会技術顧問

一滴庵院長 加堂 佑

幼少期

1980年3月4日生まれ。大阪は天満で生まれ育つ。
何でも興味を示してふらっとどこかへ消えてしまうためいつも両親からは心配されていたそうです。小さな足漕ぎ車に乗って違う校区まで行って保護されたこともあるくらい無鉄砲。

小学1年生の頃に若年性特発性関節炎を発症し、中学2年まで入退院を繰り返していました。その時に祖母や母が通っていた鍼灸整骨院で治療をしてもらったことから東洋医学に興味を持ち始めました。
また、大好きな祖母から「アンタ、マッサージ上手やね」と言われたこともこの道に進むきっかけになったのもあると思います。

大学時代~フリーター生活

大学に進むも中々なじめず中退。

この頃は物書きになろうとしていたこともありましたが、文学賞に落選したことをきっかけに夢をあきらめます。

その後喫茶店でアルバイトをしていましたが、3年目にひどい手荒れになってしまい店長から「その手を治さないと店には立つな」と言われてしまいます。

何をしたらいいか迷っていた時に小学生の頃お世話になっていた鍼灸整骨院の院長から「加堂君。鍼灸の道もいいんじゃない?」と薦められ鍼灸学校へ。

専門学校入学~仲間に恵まれ東洋医学の道へ

平成16年行岡鍼灸専門学校入学。

鍼灸学校に入学してまず感じたことは「東洋医学ってどこにあるの?」でした。

実は鍼灸学校は基本的には西洋医学の知識を教える時間が7割(これは国家試験が西洋医学の知識を必要としているからということもあります)、残り3割が東洋医学の時間と言うくらい東洋医学に触れる時間がありませんでした。

ただ、ここで僕にとってありがたかったのは僕より少し年配の同級生の存在でした。

僕を引っ張りまわして勉強会に誘ってくれたり、一緒に勉強会を開いたり、3人の友人に助けられて東洋医学の勉強をより深く学んでいくことが出来ました。

それぞれ違う流派や違う道に進みましたが今でも尊敬している友人たちです。

漢方クリニックでの修行の日々

専門学校3年生の時に勉強会の先生から「卒業後に勉強できる治療院を探しなさい」と言われ、研修先の治療院探しに四苦八苦していました。

ちょうど、そんな感じで悩んでいたときに友人が読んでいた学会誌に近所の漢方クリニックで有名な鍼灸の先生の名前を発見します。

その先生の名前は藤本新風先生。

北辰会という鍼灸流派の学術部長(当時)の先生が漢方クリニックの学術部長として招聘されていたんです。

さっそく見学の申し込みをすると、まずは面接をしますということに。

面接では「『明代以降の東洋医学の発展と現代における影響』についてレポートを書いてきなさい」と一言言われて立ち去っていかれました。ひぇ~。

当日はなんとかレポートも仕上げて、無事見学も終わり、その後研修生として扇町漢方クリニックの門戸を叩くことになりました。

このクリニックでは鍼灸師の卵や学生が日々夜遅くまで勉強や問診のまとめをしており、今の僕の基礎となる部分をしっかりと鍛えていただいた場所です。そして、同じ道を志す仲間たちにも出会えました。本当に仲間がいるというのは大切なことですね。

 

平成19年、はり師・きゅう師・あん摩マツサージ指圧師免許取得。

免許を取って半年後にやっと許可を頂き同クリニックで鍼灸治療を行いはじめます。

その後7年間務める中で北辰会にも入会し、北辰会や扇町漢方クリニックで勉強会の講師も担当させていただいたりして後進指導にもあたらせていただきました。

独立・開院へ

妻が妊娠したのをきっかけに独立しようと決意。妻には大分怒られましたが何とか説得し平成27年1月8日に開院。

この前後に藤本新風先生の所属されている一般社団法人北辰会を離れることにしました。

が、今でも尊敬している先生ですし、今度お会いするときには胸を張って成長した姿をお見せしたいと思っています。

本当に色々な人に支えられて今に至っています。伝統鍼灸一滴庵を作るときにも情熱のある建築デザイナーさんとご縁が繋がり本当にいい治療院が出来ました。

この支えられた人生のご恩返しが出来るように皆さまのお手伝いが出来るよう精一杯頑張ってまいります。